2023年11月11日 タイムゲートに臨み ‘思考の罠’から脱却する

ascension

2023年11月06日 01:34






     



 
アセンションの道を損なう、‘思考の罠’。それは些細で曖昧──それでいながら、明確に上方と下方にタイムラインを切り分ける。そんな罠に陥っていないか、心の中を見つめてみよう







高貴なるライトワーカー、光の戦士がた、いかがお過ごしでしょうか。


本記事は前の記事からの続きです。お読みでない方は、未読の記事からお読みください。



今年もいよいよ11月に入りましたね。当ブログが年末の山場と目する二つのエポックポイントの一つ、11月11日のゲート開放が近づいてまいりました。


前記事で書きましたように抵抗波動が荒れているため確言はできませんが、現時点では中止は考えておりません。よほどのことが起きない限り、実施する予定です。ただ、目下の波動状況として、突如として「よほどのこと」が起きる可能性もありますので、直前までTwitterか記事をチェックしていていただければと思います。




何度か申しておりますように、ゲートが開放されただけで、その恩恵が享受できるものではなく、あなたがその波動に共振しなければ、あなた自身という「場」にゲートは開きません。

なおかつ、そのゲートの周波数──あなたの場に開くゲートの周波数──は、あなたの波動レベルに比例しますので、

まずゲートを開くこと、そして、より高い光を受けたければ、より高いゲートにアクセスすること、が、このチャンスを生かすために大切です。


さらに、これによって、日頃の霊性開発の成果であるフェーズ上げを成し遂げられるのであれば、

その日その時に留まらず、エポックポイント以前のあなたと、以降のあなたとでは、別人と言っていいほどに変わる事もできます。




当ブログの同時瞑想では、このエポックポイントによる恩恵を最大限受けられるようにサポートいたします。具体的には、フェーズ上げの際には、(それが大きなシフトであればあるほど)抵抗波動が生じますので、これを処理するサポートをします。

それであっても、あなた自身の波動がそれに見合うだけのレベルになっていなければ、フェーズを上げてもすぐに元に戻ってしまうだけですので、日頃の実践が大切です。「同時瞑想予定日時」の記事に書かれた参加条件や注意事項を今一度ご確認くださいませ。




とはいえ、エポックポイントの活用自体は、同時瞑想に参加する・しないに関わらず、誰にでも挑戦可能です。そして、受けられる恩恵も、あなたの波動レベルに見合って受けられるわけですので、あなたなりに共振すればいいということです。
なので、最近お祈りを始めた方も、そんなに熱心じゃないけど毎日少しずつやっているよ、という方も、意識を照準されるとよろしいかと存じます。







同じ戦争に見えても、波動的には質の違うネガティブ






さて、前回は、終末思想について触れたわけですが、

この思想が、戦争想念波動に強く寄与しているというお話をいたしましたね。


戦争と言えば、R国によるU国侵略戦争のさなか、別の大きな事変が生じ、世界の耳目が一気に集まっていることは、読者の皆様もご存知のことと思います。


この事変のことは、私自身も大いに注目してはいるのですが、今のところは、当ブログでは詳しく考察することなく、引き続き、P氏の想念から乖離するマントラをお勧めしてまいりました。


この件については、少なくともタイムゲート開放までは、現状のまま継続したいと思います。



国際情勢は繋がっており、これらの事変が無関係ではないのは事実で、数々のウォッチャーが、さまざまな観点から事態の分析を試みています。

ですが、われわれライトワーカーは、あらゆる事象は想念波動から生じるという、不動の原理を忘れてはいけません。

波動的観点から切り分けた場合、それぞれ、事変の元になっている問題のタイプが違うように思われます。




R国の事変は、P氏という人物が中心となって引き起こしており、元凶はこの人物にあります。

独裁者は、いわばこの物質地球のネガティブを集約した、象徴的な存在なのです。彼らの見せるパターンは同一といってよく、極めて明確な攻略対象と言えます。



それに対し、今回勃発した事変は複雑です。様々な人々の、様々な想念が錯綜して渦巻いています。私の波動的な観察でも、混沌を極めており、にわかに収拾がつかないような状態です。


ただでさえ、独裁者問題が攻略しきれていない状況で、この根深くも混沌とした想念の渦に今メスを入れてしまいますと、タイムゲートで得られる純潔なエネルギーが、混沌とした線形波動で濁るように思います。

なので考察は、するとしてももう少し先にした方がよさそうだと判断しております。




そんな中ですが、終末思想というのは、わけてもスピリチュアルな領域で、こうした複雑さと混沌を引き起こすファクターを含んでいます。


こう書くと、「確かに今回の事変の背景にも宗教思想があるからね」とお思いかもしれませんが、

問題の焦点はそこではなく、思想そのものというより、波動的に、アセンションを阻む問題のタイプとして同種ということです。

ここは大事なポイントです。本質的に、宗教かどうかが問題ではないということなのです。


ということも含め、終末思想が含んでいるネガティブについて、もう少し分かりやすく考察してみましょう。







宗教への偏見と、それを助長する行動






前回、「祈りの会」の中にも、終末思想のようなことを発言する人がいるお話をいたしました。それでいて、彼らがおかしな人ではなく、世間的には常識人であることもポイントだと申しましたね。


それともう一つ、「祈りの会」の人が、宗教団体だと思われたくない人が多いお話もしましたね。社会的/法的には宗教団体なんですけど、あまりそう思われたくない人が多いようです。



というのも、現状、宗教に対する偏見て、物凄いんですね。それが「宗教をやっていることへの外聞の悪さ」に繋がっているのではと思います。


かくいう私も、かつて勤めていた会社で、私がサイババ師の元に通っていると知った同僚から、「私には勧めないでね!」と、強い口調で言われたことがあります。
こっちは全くそんな気はなく、言ってもいないのにですね。サイババ→勧誘→やばい という思考が焼き付いているようでした。その偏見からくる拒否反応の凄さに、驚かされた憶えがあります。

ネットでも、宗教に対する偏見に満ちた発言が溢れていますね。


しかしまた一方で、そういう偏見を抱かせるような宗教人がいるのも事実です。
「祈りの会」の会員さんに、「一緒にされたくない」という思いが生じるのも、無理はないかもしれません。




前回書きましたように、五井先生ご自身は、宗教家であることに誇りを持っておられたと思われますが、一方で、大変バランスの取れた考えをお持ちの方でもありました。



彼の教えの中に、「医薬をみだりにけなさないこと」というのがあるのも、その一つでしょう。それは、「病気になっても薬など要らない、病気など幻想なんだ、そんなものは無いんだ」と言って、家族を医者に診せなかったり、病人をたたき起こしたりといった宗教があるからだそうです。

そういう、宗教者に時折見られるような、極端な観念に陥り、奇異な行動を取ることがないように、と教えておられたんですね。



他にも、人から何かをもらった時、「神様、神様」と神様に感謝して、目の前にいる、それをくれた人には感謝しない、という行動も、批判しておられました。

そんな人本当にいるのか、と思っていたのですが・・・、実際に遭いました。インドのアシュラムで知り合った日本人に、ある時、日本から持ってきたお菓子の差し入れをしたところ、涙を流してサイババ先生に感謝するのです。ちょうど日本のお菓子を食べたいと願っていたそうで、サイババ先生のお取り計らいだ! と、思った様子です。事実そうだったのかもしれないし、それは良いんですが、差し入れた私には、ありがとうの一言もなかったですね。「本当にこういう人、いるんだ・・」と、妙に感心したものです。



それとか、宗教とは限りませんが、ボランティアに精を出す一方で、家族のことは顧みない人達がいますよね。経済的にも、私財の大半を人助けにつぎ込んでしまい、家族を困窮させるといった行動です。先般問題になった宗教団体にも、同様のパターンがありますね。五井先生はこうした行動も批判し、自分の家族を大切にすべきとお考えでした。



彼は、これらの極端な思考に陥りがちな人達を沢山見てきて、それが宗教人とそうでない人との間に溝を生む原因の一つとも考えておられたようです。なので一般的な人から見て奇異に思われるような、非常識な行動はとらないように、ご指導されておられたのだと思います。



そんな五井先生ですが、一方でこんな話もあります。







一見些細なエピソードだが・・・






五井先生は、世界平和を期して活動するにあたり、「祈りによる世界平和運動」というスローガンを掲げておられたのですが、

ある時スタッフが、このスローガンの「祈りによる」という文言を省いて、ただの「世界平和運動」にしてはどうか、と提案したことがあるそうです。「祈りによる」という言葉を省くと、NPOのスローガンのような印象になりますね。



恐らくすんなり認めてもらえると思って進言したのでしょう。ところが案に相違して、言下に却下されてしまったとのことです。

五井先生は普段から、気さくでユーモアがあり、慈愛に満ちた雰囲気の方だったそうですが、時折、峻厳な面を見せることがあり、そんな稀な一幕の一つだったようです。



これはスタッフの思い出話として、随分以前の会誌に載っていた小さな囲み記事の一つにすぎないのですが、非常に重要な意味が込められているように思うのです。




五井先生は、長い間、絶え間なく争いが続く世界の様相を見てきて、物質世界レベルの行動としてどれほどの人道支援や活動をしても、それだけで世界を平和にすることはできないと、痛感しておられたのです。


世界平和への熱意や信念があればあるほど、肉体レベルの人間の限界との間で葛藤することになります。そんな葛藤の中で、肉体レベルの行動だけでは決して成し得ない、世界を平和に導く、真に実効性のある力として、祈りに行き着くのです。「祈りによる」という文言は、そうした長い葛藤の末に編み出したメソッドを標ぼうする言葉として、絶対に外せないものではないかと思います。


(※ちなみに、「祈りの会」という名称は、当ブログが固有名詞をなるべく控える便宜上、ここでのみ使っている呼称です。正式名称ではありません。)




それにしても、そのスタッフの方は、なぜそんなことを発想したのでしょう。私は五井先生の反応よりも、むしろそちらの方が意外です。







強制もなければ戒律もない、だが純潔な指導







「祈りの会」というところは、教義はあっても戒律はない。指導はあるが強制はない。行事があれば集まりはするけど任意。入退会自由。医薬や食事に関わる禁止事項特になし。課題など推奨されるものはあるが任意。その他、義務や禁止などの特記事項なし。公表されている方針としてというだけでなく、実際にも、暗に責められたり強制されたりもしない。



こうしてあらためて書いてみると、宗教という感覚を抱きにくいのもわかります。
ここまで宗教臭くないんだから、いっそスローガンも「祈りによる」なんて文言は省いて、NPOぽくすればいいんじゃ・・・と、件のスタッフの方も考えたのでしょうか。




しかしこれらの自由度の高さは、五井先生が、世間一般の常識に配慮して、戒律をゆるくしたとか、皆さんがついて来られないと困るから、厳しくするのをやめたとか、そういうことではありません。



それどころか、彼の指導は、むしろ、高度な霊性開発を目したものです。


強制や戒律がないのは、あっても霊性開発上、あまり意味がないか、むしろ妨げになるからであって、指導が甘いということではありません。つまり霊性開発に不可欠なものに集約し、無用あるいは妨げになるものを削ぎ落とした結果としての、非常に純化されたメソッドと言えるのです。


強制もなければ戒律もない指導──だがそれだけに本人の意思に依拠する、純粋なメソッドの提供──当ブログでも、当たり前のようにそれを目指していますが、この会がそうなので当たり前と思うのかもですね。他の宗教に入っていたらどうなっていたことかと・・(というか、そもそも入らないと思いますが・・。)



ともあれ、それほど研ぎ澄まされた指導であることを思えば、「祈り」という言葉を省くなど、あり得ないという五井先生の反応も、おのずと合点がいくものではないでしょうか。



そう考えますと、五井先生は、この時もいつも通りの五井先生だった、とも言えますね。



ここで特に着目したいのは、このスタッフの方の、霊性開発上の想念というものに関してです。







霊性とネガティブの、些細にして明確な境界






そうした進言ができるくらいですから、恐らく会の幹部クラスの人ではないかと思うのです。
当時はまだ、スタッフの方と言えど、今と比べれば霊性の成熟度も高くなかったのかもしれませんが・・。そうは言っても波動の高さは、一般的な人とは比べものにならないと思います。

そんな素晴らしい資質をお持ちの方が、「祈りによる」という文言が、必須のものかそうでないか、峻別することができなかった、ということですよね。



私はこれが、スピリチュアリストが、霊性開発の道を進むにあたり、時折足をとられる、‘思考上の罠’だと思うのです。


これらの罠の特徴を一言で言えば、「紛らわしい」ということですね。



それらはつまり、波動を引き下げる、ある種のエアポケットですね。はまり込むと、知らず知らずネガティブに引っ張られます。


それでいてご本人は、自分がネガティブに引っ張られていることに、気づくことがほとんどないのです。そのくらい、霊性への道と、ネガティブに向いてしまう道との間が、実に些細な境界だということです。


些細で、曖昧──それでいて、その違いは、上方と下方にタイムラインを切り分けるほど明確です。


この物質地球では、こうした罠はそこかしこにあり、いつ足を取られるともわかりません。







ゲート開放の前に、心のお掃除をしましょう






ここで終末思想に話を戻しましょう。


上記のスローガンのエピソードは、五井先生がその場で正されたのでよかったわけですが、こちらはもっと深刻です。


終末思想がアセンションと非常に紛らわしいという話を、これまでしてきたわけですが、

問題となる紛らわしさは、そこではなくて、その先にあります。アセンションにせよ終末にせよ、その人の心が、それをどう捉えるかです。



たとえば、戦争が予想されるとしても、何とか回避できないか、せめて犠牲者を少なくできないか、と考えるか、やりたい人はやって滅びてしまえばいいと思うか、ですね。

この点、アセンションでも同じです。一人でもアセンションに導きたいと思うか、気づきの無い人はふるい落とされればいいと思うか、ということですね。



ここに罠があります。




人が戦争に向かったり、アセンションしないタイムラインを、私たちは「突き放す」必要があります。

突き放すとは、ある種、峻厳ではあるが慈悲なのです。この説明は何度かしてきましたが、今一度説明しますと、

まず一つには、個々の人の選択を尊重するということです。もう一つは、私たち光の人がネガティブなタイムラインを突き放すことで、より高度なタイムラインへと向かい、それによって他のタイムラインも上方に引っ張る効果があります。



そうした思いを持ってネガティブなタイムラインを突き放すのと、

気づかない人はふるい落とされればいい、と突き放すのとでは、

同じように見えても、想念としては真逆です。



後者も、一見すると、個々人の選択を尊重しているかに見えますが、人々が戦争で滅びたり、アセンションできないのを望むような想念が、ネガティブでないわけがありません。

そこには、ある種の、ゆがんだ感情が潜んでもいます。(彼らが思うところの)‘愚かな民’への優越感、ひいては選民意識です。

終末思想の人にしばしば見られるものですが、アセンションでも同様の想念があります。



しかし、突き放すという点においては同じで、しかもその人の内面の想念なので、その境界は曖昧です。なので、そうした想いを抱いている人も、恐らく無自覚なのではないでしょうか。

でも、ご本人はそのタイムラインを突き放した気になったとしても、何しろそのご本人が、ネガティブを掴んでしまっているのですから、突き放すどころか、そちらに引っ張られることになります。




ここまで見てきたように、こうした思考の罠は、本当に思わぬところにあります。


しかもハマる人が、おかしな人だとか波動レベルの低い人とは限りません。今回挙げた例でも、どの方も常識人で、しかも霊性の道を歩んでいる方です。そうした道を進むフェーズに至っても、まだ罠は潜んでいるということです。



むしろ、波動が高い方々が、そのようなネガティブに引っ張られることは、軽視できないものです。今後、世界の波動が上がるつれ、波動の高いスピリチュアリストの方々の想念の影響が大きくなっていくからです。

現時点でも、世界を戦争に引き込む戦争想念波動の中で、このタイプの想念の影響が非常に大きいことが、観ぜられております。





皆様も、本稿を読んで気になるようなら、念のため、心の中をちょっと探してごらんになるといいでしょう。


少しでもそのような想念があるなら、今のうちに手放してしまうのがよろしいかと存じます。それは、戦争タイムラインからあなたを無関係にするどころか、関係を深めてしまうリスクのある想念だからです。



自覚することによって手放すことができるのです。そして、できる限り心をお掃除して、美しいゲート開放の波動を受けられることを、お勧めしたく存じます。