

2023年冬至に観る来年の予兆。ユグドアに代わる支援にお応えくださった方へのお礼。スピリチュアリストの霊性開発を妨げるものが、何であるかを見極めること
高貴なるライトワーカー、光の戦士がた、いかがお過ごしでしょうか。
本年最大にして最後のエポックポイント、冬至はいかがでしたか?
私はというと、前回11月11日のタイムゲートもそうでしたが、今回も最初は波動の照準がなかなかできないでいました。
前回同様、同時瞑想時刻がお昼頃だったので、そのせいかも分かりませんが・・。私の印象では、全体的な波動の様相として(同時瞑想云々ではなく、波動環境として)波動が荒れている時は、昼間の明るいうちは波動が照準しにくく、夜になるにつれ照準がうまくいき、処理ができるようになります。まあまあ波動が安定している時は、昼間のうちから波動が照準できます。
そういうわけで、前回もそうでしたが、昼間から始めて、断続的に、時間をおいてはマントラと波動の照準を続け、結局、自分なりに手応えを得られたと観ぜられたのが真夜中の12時を過ぎたあたりでした。
翌朝、目が覚めてみると、眠っている間に滞った波動がうねっているので(これはエポックポイントに限らず、私の日常ですが)、本記事を書き始めた現時点で、抵抗波動とのせめぎ合いの真っ最中ですが──
せめぎ合いになるということは、波動が照準されているということで、それもできないうちは、とらえどころがないくらい広がっていて手応えが感じられないような様相です。手応えが感じられたという意味で、うまく行ったかと思っております。
こんな風に書きますと、若干微妙だったと思われる方もいるかもしれませんが、そんなことはなく、むしろ逆に、波動フェーズが上がって、新たなステージに手が届いた印象です。これまで、頑として動かなかったレベルの抵抗波動が動いてきた、少なくともその兆候を示してきた、そんな2023年の冬至でした。達成感を覚えるとともに、もしかしたらその分、よりチャレンジングになっていくのかもしれないので、気を引き締める必要もあるだろうな、とも感じました。
私の印象としては、来年の様相を暗示しているような気がします。
誤解しないでいただきたいのは、これは同時瞑想参加者の方の問題ではないので、参加者の方にも夜まで続けて欲しいと言っているわけではありませんので、その点はご放念ください。同時瞑想参加者の方のサポートは、問題なく行えたと観じております。
ただ、以前から申しておりますように、高度な波動を受けた時は、受けた瞬間もそうですが、そのあとが大事です。地球マカバ瞑想などで、高度なレベルを維持できるように、しばらくは波動に意識を向けていた方がいいと思います。
サイババ尊師も、ダルシャン(尊師の波動を受けられる行事)の際、終わった直後に、気を緩めておしゃべりなど始めてしまう人がいるが、せっかく受けた波動がご自分(尊師)の元に戻ってしまうと言っておられました。
これ、私個人の印象では、人によってかなり差があるようで、終わった直後に何をしても波動が下がらない人と、おしゃべりとかすると急速に、やる前の状態に戻ってしまう人がいるようです。ちょっとそのあたりの話も近いうちにしたいと思っております。

ユグドアに代わる支援についてのお礼
さて、前の記事3回は、ユグドアに代わる支援方法が決まったので、それについての説明となっております。
決済サービスのPayPal(ペイパル)の機能の一つ、PayPal.Me(ペイパルミー)と、HEXA(ヘキサ)というNFTマーケットプレイスでのイラスト販売、の二つの方法にしたお話と、その説明の記事です。お読みでない方は、よければお読みください。
まず、この時点で、ペイパルミーにお応え下さった方、ありがとうございます。(ユグドアが終わる直前の時点で支援してくださっていた方もいらっしゃいましたし)
なお、解説記事の通り、メッセージのやり取りをご希望の方は、コメント欄にメールアドレスを入れて下さいましたので、こちらから個別にメールさせていただいております。
あと、メールアドレスの記載はなかったけどコメントを下さった方も、こちらのペイパルアカウントの履歴でメアドを確認し、お礼のコメントを送らせていただいております。
説明しました通り、アカウントへのログイン回数を抑制していますので、日があく場合はありますが、見落とさない限りお礼のメールは送らせていただこうと思います。
なお、コメント欄に何の記載も無かった方については、メッセのやり取りをご希望でない可能性を考え、メールするのは遠慮いたしました。そうした方を含め、この場を借りて改めてお礼申し上げます。
私は、支援していただく、という形をとってはおりますが、実のところ、皆様がどのくらい当ブログに価値を見出していてくださるかを、この支援を通して知りたい、という思いが強いのです。
当ブログのレクチャーは、初歩的な方にとっても実行可能なメソッドというだけでなく、可能な限り高度なフェーズに至りたいと望む方にとってのメソッドでもあります。
あたう限り高度な、そしてスムーズなアセンション・タイムラインを行き、なおかつ到達点も高度であるためのメソッドとして、当ブログに匹敵するものは多くはないと思っているし、多くないというか、そもそも私自身が現時点で見つけられておりません。
この過酷な物質地球で、アセンションにとって重要な光の戦士ほど、そのようなメソッドが必要であり、そうした得がたい存在がたを支援したいと私は思っています。
その私の支援のお声かけに応じて下さるということは、そのことを理解してくださっているということを意味しており、それはとりもなおさず、それだけの資質を持つ方が読者の方にいらっしゃるということでもあります。
そんな素晴らしい資質の方がどのくらい読者にいらっしゃるかを知りたいという思いが、私の中にあるのです。そういう方が一人でもいらっしゃれば、続けている甲斐を感じられますから。
その意味では、何人であっても応えて下さる方がいらっしゃったのは幸いで、今度も続けていこうという意欲につなげることができました。ありがとうございます。
(※それにしても、わりと本名や住所を送信される方がいらっしゃるので若干おどろいています。
確かに私のメールに届くだけで全体公開されるわけではありませんが、一応個人情報ですし・・これは私だけでなく、ショップや投げ銭の授受をする全てのケースで言えることですが、不必要な個人情報を送受信しなくてもいいように思います。ペイパルミーの手順の説明記事をお読みいただいた上でのご判断ならいいのですが、お読みでないなら説明記事をご確認ください。
本名を知られたくない場合はアカウント名をニックネームにします。住所だけなら、送金の際の選択肢で、「住所は不要」にすればいいだけです。いずれも、特に難しい手順ではないと思います。
また、メッセージのやり取りについての説明も、同じ記事にあります。
コンテンツメニューの「※手順の説明はこちら」の「こちら」をクリックすれば行けます。一応ここにも再度リンク貼っておきます。PayPal.Meの手順についての解説)

HEXA独特の機能の利用について
それで今回、驚くというほどでもないけどちょっと意外だったのは、イラスト購入に応えて下さる方が、現時点で一人もおられないことでした。
いや、だから買ってくれということではないですよ。元々、イラスト購入という案で準備を進めていたところ、ペイパルにペイパルミーなどの送金機能があることを知り、こちらの方がユグドアとやり方が近いので追加したのです。
ペイパルミーは利便性もよく金額も自由だし、HEXA同様メッセージ交換もできるので、どちらか一方というならペイパルミーを続けるつもりです。
なので、ペイパルミーを見つけた時点で、イラストの方はやめても良かったのですが、折角デジタルイラストを描く気になったことだし、描いてみたら思いがけないほどの波動を発するので、こちらも選択肢として設定させていただくことにした、という経緯です。
そもそも、出品から一ヶ月で自動的に削除されるので、その時点で終わってもいいし、再出品するもよし、気が向いたら別の絵に入れ替えるもよし・・その時の成り行きに任せようかと思っています。
イラストの波動について、「お分りになる方はお分りになるだろう」と書きました。ただそうだというだけで、分からないなら分からないで構わないし、信じない人は信じないでいいと思います。
そのつもりでお読みいただければと思いますが、言ってみれば未来の波動なんですね。アセンション・タイムラインを進んだ先の未来に訪れるフェーズの波動です。ですが、コメントを下さった僅かな方を除いては、今のところ無反応です。
つまり少なくとも現時点では、「お分りになる方」がほぼいないということかと思います。私は読者様には高度な資質をお持ちの方がいらっしゃると思っているので、若干意外ではありました。
繰り返しますが、だから買ってくれと言っているのではないですよ。無理に分かろうとする必要もありませんし、ましてや分からないのに無理に買う必要もありません。いつ終わっても気兼ねがなくていいと思っているくらいです。ただその一方で、様子見もかねてしばらく続けてみようかな、とも思っています。
というのも、前回の説明記事で書きましたように、HEXAには袋とじやコミュニティなど、購入者限定で見られる機能があります。今回、メッセ交換のために、袋とじにメアドと合言葉を入れたのですが、今後は特定のページのパスワードなども入れようか考えている、と書きました。
私には、地球環境もしくは皆様の波動フェーズがもう少し上がったら公開したい・・と思っているマントラ(もしくはマントラというには少し長めのもの)があります。
主として、部分的に公開を控えたものなど、以前のマントラをより強化する文言を加えたものです。
今時点でも、全体公開するのに躊躇があります。もったいぶっているわけではなく、あくまで読者の皆様や世界の波動の様相を見ての判断です。
波動の様相として、いつか全体公開してもいい段階になったら公開すればいいと思っているのですが、一部の方はその段階に達していて、前倒しで提供してもいいかなとも思うのです。ただ、その一部の方への公開の手段や条件付けが難しいですよね。
今回、その気になれば一定範囲の人だけに限定公開する手段を得たことになります。上記の説明通り、条件付けとしても、かなり適切じゃないかと思われます。誰もおられないならそれはそれでいいわけですし、あらたな手段を得られたのはよかったと思います。

「想いの癖(クセ)」がネガティブの手放しを妨げる
さて、レクチャーの続きに戻りたいと思いますが、世界を戦争に引き込む想念、中でもスピリチュアルによるものについてお話ししておりますね。(お読みでない方は、未読の記事からお読みください。)
五井先生がよく、「想いの癖(クセ)」ということをおっしゃっていました。人には、幾度とない転生の過程で蓄積した結果としての思考パターンみたいなものがあって、それがなかなか直らないというのです。
「祈りの会」には、前世でもスピリチュアルだったり、それも先生と呼ばれる立場だった人も多いそうです。なので、人格的にとても慈悲深く優しい方にも出会いましたが、一方で、少し気位が高いのかな、と思える方もいらっしゃいます。
最近では私は、前世で終末思想の宗教者だった人も、結構いるんじゃないかと思うようになりました。
(誤解のないように言っておきますと、別に宗教臭いとか、スピリチュアル・マニアチックとかいうことではありません。普通の良識的な方々です。本稿の意図から、スピリチュアリストの内面を考察しています。一般的な人の内面に問題がないということではありません。)
終末思想は、アセンションに伴う物質次元世界の消滅を、人類の滅亡と誤認する思考で、しばしば選民意識がセットで伴います。その「想いの癖」が、アセンションをアセンションと認識するようになってからも抜けないのではないか。
だからアセンションしない人や、今だ気づきがないために過酷な運命をたどりそうな人たちに対して冷淡であるばかりでなく、心のどこかで見下すような思考を持つのでは・・と。
「想いの癖」は、何も終末思想だけではありません。色々なタイプがあります。いい想いの癖もあれば、ネガティブな想いの癖もあるんですね。
・・・と、ここまで他人事みたいに書いてきましたが、私自身にも「想いの癖」はありました。いい意味での想いの癖は、「世界平和の祈り」を知った時、即座にこれが素晴らしいものだと認識できたことですね。悪い方もあります。そのお陰で随分回り道をしました。
「世界平和の祈り」を祈り始めた当初は、沢山の良いことが続けざまに起き、すっかり有頂天になっていました。まるで美味しいラーメン屋さんを見つけて周りに教えてあげたくなるみたいに、機会があればこの祈りを勧めていたのもこの頃だったかと思います。
自分がいいと思ったものを、人に勧めたくて仕方なくなるのが私の最大の「想いの癖」なんですよね。(このブログを書いているのもその表れかもしれません。)
勧めるのはいいとして、特に近しい相手に対しては、今思うとちょっと押し付けがましかったかもしれません。元は親切心なんですよね。親切心が過剰になると、お節介ですからね。良い方にも悪い方にも転ぶクセだと思います。
当ブログでも、折に触れて「お信じになる、ならないはご自由です」「やるやらないはご自由です」などと言い添えていますが、私の方では言う言わないに関わらずそう思っているのですが、押しつけがましく感じる方がいないとも限らないので、言い添えるようにしているのです。
そもそもワンダラーって、多かれ少なかれ、そういうところがあるんじゃないですかね。でなかったらこんな壮絶に低い波動世界のサポートしに来ないでしょうし・・とか思ったり。
でも、ともすると、「祈ればいいのに」「これをやれば救われるのに」という思いが高じて、現状の世界や社会への批判的思いが生じてしまう。良かれという思いが、知らず知らずネガティブになってしまうことがないよう、どこかでスッパリ突き放さなければいけないんですね。昔はこれが苦手でしたね。
祈れば祈るだけ光を受けられる一方で、ネガティブの手放しがまるでできてなかったですね。最初のうちはいいこと続きでしたが、だんだんうまく行かないことが起きてきて、しんどくなってきたのです。
「世界平和の祈り」を勧めた相手から、「やっているけど、良いことなんて起きないじゃないか」と言われても、うまく答えることができなくなっていました。
それでいて、「世界平和の祈り」を始めとするツールの威力を疑ったことはなく、「印」やマントラ、瞑想など、ツールの研究には余念がなく、ただひたすら続けていました。
でも、それ以外の行動パターンは、祈り始める前とほとんど変わらなかったですね。ネガティブの手放しなんて、ツールによって光を降ろし、霊的な面を研磨し続けていれば自ずとできるものだと思っていました。
今でも、若い頃と比べて、表面的な行動パターンはあまり変わってない気がします。年齢とともに多少丸くなった程度でしょうか。
でも、内面のお掃除は進捗しました。最も大きく困難な峠を越えた感じです。もうこの先、これ以上大きな峠はないとは断言しきれないですが、一つのステージにはたどり着いたように思います。
しかし、ここまで来るのに、ものすごーく時間がかかりました。私自身の心の闇と、周囲からまつわりつく闇が、呼応し合って、なかなか離れていってくれない。自分の中から湧き上がれば自己嫌悪に陥り、周囲から寄越されれば汚染されて自己肯定感が下がる。長い長い葛藤を、どうやって凌いできたのかと思うくらいです。
そこまで遠回りをした原因は、やはり私が光を享受することに専心する一方で、ネガティブの攻略の方は軽視していたからだと思います。

ネガティブの手放しの過程
他の会員さんを見ても、ネガティブを手放し切れていないのを見てとるとができます。
とはいえ、もちろん、祈りも何もしていない人達とは、雲泥の差なのです。何もしていない人のネガティブが石だとすると、祈り人(特に古参の会員さん)のそれは、お豆腐みたいな感じですね。長年の祈りで光が入って、フニャフニャになっている。それだけに手放しきれてないのが、よりはっきり分かるのですが。
当ブログの読者様も、たゆみなくツールの実践を続けている方は、同じだと思います。
そういうフェーズにある方の話ですから、「なんだ、スピリチュアリストもネガティブを抱えてるんだ。祈ってても意味ないじゃん」とか、勘違いしないでくださいね。
とにかく、そのくらい、この過酷な惑星での、ネガティブの手放しというのは難しいのだと思いますが、
一番大事なのは、まず自分の中に、ネガティブなカルマ想念を手放せていないものがある、と自覚することだと思います。まず自覚するという段階を経て、手放すという段階に入れます。
私の観察では、この自覚がそもそもできてない会員さんが少なくないように思います。「私たちはもう手放しちゃってるから」と言い切った方もいました。
その方も含め、私はカルマ想念を手放しきった会員さんに遭ったことはありません。見ようと思わなくてもこちらに来るので、見るも見ないもないのです。
ご本人がご自分を客観視し、自覚しないことには、手放すという段階になかなか至れません。これは口で言うのは簡単ですが、ほとんどの人にとって、長く苦しい過程です。
しかし五井先生や現会長の講話からは、彼らがこの過程をかなりスムーズに凌いできたのがうかがえます。
現会長は、気がついたら無くなっていたと言っているし、五井先生にいたっては、ご自分の人間的な欠点は、自分(という器)が拡大するにつれ消えてしまった、とおっしゃっています。
つまり彼らは、一般的な人にとって非常に厄介なこの過程を、それほど手こずらずに凌いできたようです。あるいは、これまでの転生で、ほぼ完了していて、今回の人生では最終仕上げといったところだったのかもしれません。
現会長はよく、会員さんに、皆さんはもう過去はない、という言い方をなさいます。つまり霊的には、肉体の転生のサイクルを卒業しているのだ、という意味かと思うのですが・・。
会員さんが、ネガティブを手放せないということは、つまり過去を掴んでいるということです。彼女から見れば、無いモノをなぜ掴むのか、と言いたいところかもしれません。
彼女はこれまでも、この、「無い」という言い方をしばしばしています。この世界の苦難・苦悩も、「無い」と言い切っておられるのを、何度か耳にしてきました。物質次元世界は、想念が作り出した幻の世界ですから、無いと言われればその通りです。
一方、五井先生は、「無い」とは言わず、「消えてゆく姿」と言っておられました。

「無い」を「消えてゆく姿」という真意
「消えてゆく姿」という概念は、思考メソッドと言えるものですが、五井先生ご自身が必要だったわけではありません。先生ご自身は、現会長と同様、「無い」と言い切っても問題ないのです。ただ、周囲の人々の様子を見て編み出したものなのです。
彼は、ご自身の団体を立ち上げる以前、ある宗教団体に心酔していた時期があるのですが、そこでの教えも「無い」だったそうです。自分にはそれで十分だった、と言っておられます。
しかし、他の人達はそうではなかった。無いと言われても、実際には貧困や病苦など、さまざまな苦悩や苦難がある。無いと言われても、ある。それで行き詰ってしまう人が多かった。
一方で暴走する信者もいた。「病気なんて本当は無いんだ」と、病人をたたき起こす。これもある種の行き詰まりでしょう。「無い」の概念が極端な方向に行ってしまった例です。
だから彼は、「現れることで消えてゆく」という概念を打ち出した。現れた時は、もう霊的には消えているというのです。本人が再び掴んでしまわない限りは。
霊的には(つまり真実の科学的には)無いものなので、消えてゆくと言おうが、無いと言おうが、無いことには変わりないわけですが、現れて消えてゆくという教えが、行き詰っている多くの人を葛藤から救ったことだろうと思います。
思考メソッドの力を認識させられる話ですが、そういうメソッドが必要だということを、五井先生自身も、周囲の人々の観察から学んだわけです。これは、市井に生まれ、市井の中で生きてきた五井先生ならではの学びだったのだろうと思います。
つまり、ご自分にとって自明のことも、他の人には難しいことがある。指導者として、指導する対象が、何に行き詰るのか、何に葛藤するのかを知るのは、ご自身の霊性開発とは別の意味での、学びなんですね。
私もまた、「消えてゆく姿」というメソッドに助けられた一人です。
前世までの行いの報いが、人生の苦難となって現れて消えてゆくものであるという認識は、カルマ清算を認識することでもあります。なので、苦難を凌ぐという意味では大いに助けられたのです。が──、
それでいて、ネガティブの手放しとなると、それだけではままならないものがあったのです。
今回はここまでとし、続きは次回以降にゆずります。本記事が今年最後の投稿となります。皆様よいお年をお迎えくださいませ。