

アセンションの道から外れないために大切なこと。大勢に影響しない見解の相違と、アセンションの道をゆるがす本質的な相違を見極める。本来は光であるものを闇に引き込む暗黒波動域の巧妙さを認識する
高貴なるライトワーカー、光の戦士がた、いかがお過ごしでしょうか。
本記事は前回からの続きです。お読みでない方は、前の記事からお読みください。
前回記事をアップ後、少しは和らぐかと思ったのですが、依然として膨大な寄越しがひきもきらず続いている状況にあります。
あまりに続くようだと、最重要といえる11月の同時瞑想の実施も見合わせなければならなくなるかもしれません。もしそうなったら参加者の方の方には申し訳なく思います。まだ日があるので、それまでに処理してしまうつもりでおりますが・・。いつも通り、中止の場合のみアナウンスしますので、直前まで記事やTwitterをチェックいただければと思います。
こういう事態になると迷惑だと書いたら、余計に迷惑をかけられることになってしまったとは皮肉ですが・・
私の印象としては、今、寄越しをしている人は、初歩的な人ではないように思います。
初歩的な段階の人は、そもそも、さほど大きなリスクはないと申しました。神事と呼べる段階に満たないからです。一方で神事と呼べる段階に至っている人、あるいは届こうとしている人は、スピリチュアル的な本格度を増してきている分、リスクを勘案しないで行うのは、かなり危ういということです。繰り返しますが、私が解説しようがしまいが、こうしたリスクは存在します。
リスクを背負えば、それは必ず、いずれその方ご自身に、現れてまいります。私に転嫁したくらいで済むものではありません。それは運命をそこない、波動を下げ、場合によっては闇に引き込まれます。
それにしても、こうしたメカニズムについては、これまでも折に触れて書いてきたつもりだったので、想定しない方々がいたらしいのも若干意外ではあります。ご自分の身に置き換えて考えたことがなかったということでしょうか。
彼らのカルマ寄越しそれ自体が、私が説明したセオリーが事実であることを証明しているということもまた、皮肉といえば皮肉ですね。

百のパワースポット来訪よりも、一回の実践の絶大な威力
思うのですが、こうしたストレスというか心の闇をこちらに寄越している人というのは、後ろめたいことがあるんじゃないでしょうか。
恐らくそれは、当ブログの推奨する「三大ツール」をはじめとするメソッドを実践していない、ということでは? と、思ったりします。
私も、物質世界ででしたら、後ろめたいことはありますよ。たとえばお掃除やれてない時とかですね。掃除をやれてないという後ろめたさは、掃除をやるまでは消えません。やるとスッキリするんですよね。
やるべきことをやってない時って、後ろめたいですよね。ということは、心のどこかに、やるべきというお気持ちがあるんじゃないでしょうか。
それで提案なのですが、もしもそんな「三大ツール」をやれていない方が、本稿をお読みでしたら、一日一回でもいいので、なさることをお勧めしたいと思います。
「毎日〇〇分以上なんてハードル高いな」とお思いの方がいるかもですが、それは目下の厳しい波動環境をかんがみて、当ブログの同時瞑想への参加条件として設定しているものです。波動環境が良くなればもっと緩和したいと思っているのですが、ともあれ同時瞑想の条件です。
あと、目下後回しにしている経済のレクチャー、思考の深度を深めるレクチャーが功を奏するためにも、一定期間はその位やった方がいいとは思いますが・・・、それをハードルのように考えて実践しないようであれば本末転倒です。
いつも申しておりますように、霊性開発は出来高制です。やればやっただけ効果があるのです。オール・オア・ナッシング思考は、霊性開発には向かないと思います。
「三大ツール」がどれほどすごいものか、もう少し分かりやすく申しましょう。
たとえば仮に、各地のパワースポットに、百回くらい足繁く行っているとしましょう。それよりも、「世界平和の祈り」を一回唱えた方が、はるかに格段に器が浄められ、波動が上がります。「三大ツール」の威力はそれほどすごいのです。
時のパワースポットと言えるエポックポイントでもそうですが、いかに素晴らしい波動でも、自分の波動が低くて共振できなければ、享受することはできません。その、波動を高めるためのツールが祈りやマントラ、瞑想であり、数あるそれらの中でも、ずば抜けた威力があるのが、当ブログが推奨している「三大ツール」なのです。
実際のところ、「三大ツール」の波動は、高位神霊の領域と直接つながれるほどのポテンシャルを秘めているからです。しかしそれは、そこにあるだけでは効果ありません。わたしたちが実践することによってのみ、その真価を発揮します。
その威力は、一回実践するだけでもすごいのですが、目下の波動環境が極めて低いため、日常の物質的な生活に追われていると、元の低い波動に落ちてしまいます。ですので続ける必要があるわけです。また、続けるうちに、高位神霊域の中でも、高い領域の光と共振できるようになってまいります。その意味でも、日々の積み重ねが大事ということですね。
大事といえば、実践することに対するハードルを、自分で上げてしまわないことも大事だと思います。
一日〇〇分とかが無理なら、一日一回以上、いつでもどこでも、といった気持ちで、気が向いた時に祈ってもいいし、文言が思い浮かばない時は、「世界平和、世界平和」と心の中で唱えるだけでも違います。「地球マカバ瞑想」の画像をスマホで出せるようにしておいて、時折見つめる、というのもいいでしょう。
ご自分に可能な範囲で、ともあれ実践をしていくことで、もはや、物質世界とどんどん乖離して上がっていくアセンション・タイムラインを、捉えることも可能になっていくと思います。
言い換えるなら、いかにスピリチュアリストでも、こうした強力なツールの実践なしにアセンションするのは厳しいということです。この機会に考えてみてはいかがかと思います。
※三大ツールについての詳細は、メニューの「関連サイト」へのリンクから行けますが、ページへの直接リンクを以下に貼っておきます。
https://spiritual-ascension.jimdofree.com/tools-and-methods/three-tools/
それと、蛇足かもですが、もしかしたら、同時瞑想を実施したり、ヒーリングをすること、それ自体に執着している方がいるかも、とも考えてみました。もしそういう方がいたとしたら、それこそ、スピリチュアリストとして、まず手放さなければならないものだと思います。執着によって波動の損ないに拍車がかかりますし、何よりアセンションには、あらゆるネガティブを手放す必要があるからです。
ですので、冷静にご自身を客観視して、それが執着でないかどうかを、見極める必要があります。執着であるなら、どこかで断ち切らなければなりません。執着でないというのなら、前回記事で書いたように、リスクをわきまえて、行なうかどうかを見定め、行なう場合もキャパを超えない範囲で行う必要があります。
具体的にどうするかは、実施者や参加者の波動状態等、状況によるので一概には言えません。私の場合ですと、参加条件を設けてキャパを超えないようにし、それでも厳しい場合は中止するなどの調整をしています。「祈りの会」でも、かつてまだ未熟な会員さんが多かった頃は、行事にもよりますが参加にある程度の制限をしていた記憶があります。そうやって安全を図りながら行うのは、この厳しい波動環境では大切なことだと思います。

見解の相違は大勢に影響しない。本質的な相違に陥ってしまえば、大勢に影響する
くどいようですが、ここまで述べてきたリスク説明は、セオリーであり、私個人の見解ではありません。見解の相違で済む話なら、私もここまで深刻視しないのですけどね。
見解の相違っていうのは、あるんですよね。
たとえば、バシャールさんはAIが人間より優れていると思っているらしいですが、私は首肯しかねます。渡辺大起氏の著書は私のバイブルの一つですが、枝葉の部分では、私とはいくつか見解を異にする点もあります。
そもそも当ブログ自体、「祈りの会」の会員である私が、会の指導を完全には踏襲することなく、別のアプローチでのレクチャーやメソッドの提供をしているのもそうですし。それは五井先生といい現会長といい、高度な霊能者であるがゆえに、霊性開発において我々が抱えがちな問題を実感として経験していない、あるいは前世まででほぼ終えているせいではないかと思っています。
そうした経験の違いから、私自身がしてきた回り道を、読者の方にはしてほしくないと思って指導を考えているので、会のアプローチとは違う面もあるわけです。
こういうのはつまり、見解の相違です。見解の相違というのは、要するに、考えが違うままで進んでも、それがアセンションにおいて、大きな問題になることはない、ということです。いわゆる「大勢に影響なし」ということですね。
しかしそれがどこからか逸脱して、そのまま行くと危うい道筋に行くことがあり、そうなると、単なる見解の相違では済まなくなります。
スピリチュアルでは特にそうですが、そのへんの切り分けというのが、意外に難しい面があるのです。そして、線形波動/暗黒波動というのは、その微妙な亀裂に入り込むのが、実に実に巧妙なのです。

暗黒波動域の、心の隙をつく攻撃の巧妙さ、見境のなさ
以前、霊的感知能力の強い人は、その分、暗黒波動の幻惑に遭いやすいリスクがあるという話をしましたが、
連中にとっては、幻惑さえできれば、よすがは何でもいいのです。何であっても、よすがになると見れば、心のスキマに闇を流し込んでくるのが、暗黒波動域の常とう手段です。
つまり、「見解の相違」「アセンションに向けて、大勢に影響なし」な考えが、わずかな差で、いつの間にか、大勢に影響があるような考えの違いに陥ってしまう事が、ままあるのです。
中でも連中が得意とするのが、「すり替え」です。真実を、全てではなく、不自然にならないように少しずつ嘘とすり替えて、本質を骨抜きにし、いつの間にか、ネガティブな思考へと変質させてしまうという技を、彼らは持っています。
その威力たるや凄まじいものがあります。
もう本当に、ある意味感心してしまうのですが、あらゆる分野に見られます。その時代、その社会で、どんなチャンスも逃さずに、すり替えをしてくるのです。
たとえば、以前話題にしたポリコレも、本来なら、人種や思想の違いからくる差別から、解放されるための概念です。それが最近では、いつの間にか、逆差別に繋がっています。たとえばアメリカのエンタメで近年よく見られる人種的配慮が、いつの間にか極端になって、マイノリティが出てこない作品は、作品としてどれほど優れていてもダメ認定するとかですね。
フェミニズムもそうですね。本来なら、自由と解放をもたらす思想のはずが、いつの間にか、女性が女性らしさを強調するような行動や服装をすると、バッシングするというフェミニストが出てきて、逆に、古い考えの人達から、フェミニズムに対する格好の批判材料にされてしまっています。
本来は、自由と解放をもたらす思想は、「〇〇であってもいい」のはずですが・・。それがいつの間にか、エンタメには、マイノリティが何人出てこなくてはならない。重要な役でなければならない。女性は、出世したいと思ったら、男性的か中性的にふるまわなければならない。といった、「〇〇でなければならない」になってしまっています。
「こんなことなら共〇党に投票すればよかった」と嘆く人もいるそうですが、これはどちらの党がどうという問題ではありません。共〇党であれば共〇党に沿った思考を、民〇党なら民〇党に沿った思考を、極端に増幅させ、闇波動想念に変質させているだけです。
アメリカなど欧米を中心に見られるこれらの傾向に対し、主として中東などにおける宗教的思想は、真逆の意味で厳格化しているように見えます。
それらは、一見正反対に見えるのですが、「〇〇でなければならない」という、思考の縛り付けという意味では、共通しています。
「〇〇してもいい」が、いつの間にか、「〇〇しなくてはならない」にすり替わっていく。本来なら、自由と解放をもたらすはずのものを、別の形で、またぞろ、がんじがらめの想念の牢獄に閉じ込めようとする。闇波動域が、長年にわたり得意としてきた「伝統芸」です。
良識的な考えでは、この「〇〇しなくてはならない」「〇〇してはいけない」の〇〇には、「人の自由意思は尊重しなくてはならない」とか、「人を傷つけてはいけない」とかいった文言が入ると思うのですが、そこから逸脱してしまって、人心を縛り付け、支配するものに変質させてしまうわけですね。
こうした、制限と確執に満ちた想念は、社会を線形波動世界に閉じ込めるための、暗黒波動域による心理誘導であり、アセンションを妨害するための攻撃です。
つまり、闇波動連中には、主義や思想は関係ないのです。何でもいいのです。彼らの辞書に「見境(みさかい)」という言葉はありません。とにかくそれが、人々の想念を縛り付け、線形波動の牢獄に閉じ込められるよすがでありさえすればいい。一見真逆に見え、対立しているように見える主義思想も、本質は同じです。この、「対立を生む」というパターンも、連中の格好のご馳走なのですから。
アセンションに直接関わるスピリチュアルの分野となると、彼らの伝統芸は、ことのほか巧妙です。その代表が、以前にも触れた「スピリチュアル陰謀論」及び「終末思想」です。
今回はここまでとし、続きは次回以降にゆずりますが、
現在の世界の状況をかんがみるに、主として「終末思想」について書こうかと思っております。