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神智学における性の概念

城を見つめる女性



     


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神智学における著書からうかがえる性概念の考察。霊性開発において必要な認識とは







高貴なるライトワーカー、光の戦士がた、いかがお過ごしでしょうか。


今回は、前回記事の続きとなります。


その前に今一度ことわっておきますと、これは性差別に対する論評ではありません。
何度もことわりを入れるのは、本稿の補足となる知見についてネット検索しているうちに、ポリコレに関する発信が目についたからです。本題に入る前に、少しその点に触れてみたいと思います。

なお、物質社会での属性に関する問題はセンシティブで、個々人それぞれで、色々な意見があると思います。私個人の印象も交えて書いてみます。



ポリコレは、ポリティカルコレクトネスの略称で、wikiにはこうあります。

人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す。「政治的正しさ」「政治的妥当性」とも言われる(ウィキペディアより)


つまり、その人のあらゆる属性について、偏向を持たない表現を用いる社会的な良識のことであり、現代社会には欠かせない配慮と言えます。


ところが世の中には、何かと過剰になる人たちが存在します。


私もうっすらとは認識していましたが、今回検索するうちに、シャレにならないほど深刻化しているらしいことが分かりました。


もちろんポリコレ配慮自体は大事です。適切なポリコレは、現代社会では欠かせません。

問題は、やり過ぎの感がある過剰なポリコレだと思います。

代表的なのは創作物や著作などです。しばしば見られる言葉が‘違和感’です。原作物のリメイクやシリーズ物で、人種や性別などキャラ属性を無理くりに変更することが続いており、違和感がつきまとって没入感やカタルシスを得られない、という声が多く見られます。オリジナルなら問題ないのに、なぜ新たな創作をしないのか、という声も多いですね。

にもかかわらず、過剰なポリコレをやめないばかりか、過剰なポリコレ配慮をしない創作物を糾弾する動きもあります。適切なポリコレ配慮をしているだけでは不十分だというのです。特に日本の創作物は槍玉に挙がるようですね。


私の印象では、人間の感受性という最もセンシティブな領域に訴える創作物の世界に、この種の配慮を画一的に当てはめられれば、違和感が生じるのは自然なことだし、差別とは違うと思うのですが・・・。


また、教育現場でも、幼い子供の性認識を攪乱されるような指導が、保護者に懸念を抱かせている、といった事態もあるようです。



過剰ポリコレ支持者の側は、こうした批判に対し、差別主義だとレッテルを貼るかたちで応戦しているようです。


ただ、私の見るところでは、適切なポリコレ支持者と過剰なポリコレ支持者は相反するもので、これを一括りに差別主義者と決めつける人達こそが、過剰ポリコレ支持者と同じタイプの人達だと思えます。



個人的に、最も懸念を抱くのは、「こういうのもあっていい」ではなくて、「これからは全てこうでなければならない」といった、抑圧的な流れが強まっているように見えることです。アメリカが中心になっている流れですが・・・エンタメ上の対立が政治的な対立にまで発展しかねない国だけに、少々気がかりです。

現に、過剰ポリコレ支持者が、批判する人達を一括りにTR支持者と決めつけている発信も見かけました。ネガティブな方向に行かなければいいのですが。




思ったのですが、この現象はフェミニズムと似たところがあります。
前の記事で「私はフェミニストではない」と書きましたが、本来フェミニズムは、男女差別社会を是正するための運動であり、かつての差別と抑圧に満ちた社会が変化してきたのも、こうした運動なしには成し得なかったでしょう。
ところが今では、フェミというと、公正さや理性とは相いれない、極端な思考をイメージする人も少なくありません。


先日もあるフェミニズムを標ぼうする女優さんが、胸の一部が見えるドレス姿の写真を公開したところ、「フェミニストのくせに」と大きな批判が浴びせられたそうです。その一方で擁護するフェミニストもいて、批判派と擁護派に分かれたそうです。

それにしても、女性を差別や制限から解放するはずの運動が、「フェミたるもの女性的な魅力を発揮してはいけない」とでも言いたげな、抑圧的な思考になってしまう人がいるのは一見不思議にも思えますが・・・。恐らく男性と肩を並べるために、女性的な面を封印して戦ってきた歴史があるからでしょう。




人間の思考が、ある抑圧や制限から解放されようとするあまり、その逆側に極端に振れて、逆の意味で抑圧的になってしまうことは、地球の社会においてありがちなパターンだと思います。






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スピリチュアルにおいて大事なのは、ネガティブかそうでないか





さて、冒頭で、この種の問題は、物質社会的には、色々な意見があるだろうと申しました。が、スピリチュアル的には、シンプルにして厳格な線引きがあります。



それは、想念波動として見た場合、ネガティブかそうでないかです。
ポリコレもフェミニズムもそうですが、それ自体はネガティブではなく、むしろ必要で、私たちにより快適な社会をもたらすためのものです。
それを、抑圧的で制限に満ちた方向に変えてしまうものが、ネガティブ想念です。


極端なポリコレ派は、批判する人を差別主義者と決めつけますが、批判をしている人の全てが差別主義者なわけではないのは、その批判の内容からも明らかです。実際は極端なポリコレ派と差別主義者はどちらもネガティブという点で同じタイプです。

極端で抑圧的なフェミニズムも、本来のフェミニズムとはむしろ対極にある、ネガティブな観念と言えそうです。


最近考察を保留にしていますが、これは経済にまつわるネガティブ想念とも酷似しています。経済そのものがネガティブではありません。本来はポジティブに働く経済を、ネガティブに働かせる想念がネガティブです。




つまりネガティブな波動とは、本来はポジティブであったり解放的であったりするものであっても、抑圧や制限、画一化、支配といった具合に、ネガティブ一色に塗り替えてしまうのです。つまり反アセンションです。



こういう思考の切り分けは、スピリチュアル的にも大事ですので、少し意識的に頭に置いておかれてはと思います。






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「エネルギーの関係上」とは?






前置きはこれくらいにして、前の記事の続きを書きたいと思いますが・・。
(ちなみに、本稿のために再読していて気づいたのですが、ここでは神智学と呼んでいますが、秘教と呼ばれる方がスタンダードのようです。)



私がそもそも性にまつわる神智学の思想に着目したのは、こんな記述が目に留まったからです。

(※ここから、著書から記述を拾って書き出してみますが、引用とともに、本文の意味を損なわない程度の要約も入れさせていただきます。本文そのままの記述のみ、引用マーク “” をつけます。また、今回は複数の著書から考察しますが、出典に「同著より」とある場合は、直前に紹介していた著書を指します。


大師方が肉体を持つ必要がある時は、現在の地球エネルギーの関係上、男性の肉体をとります。(神尾学著『秘教から科学へ』より)


ちなみに「大師」とは、「マスター・覚者・アデプト・マハトマ等ともいわれる」とあり、要するに、魂の長い経験を経て高位領域に上りつめた人達、ということですね。



この箇所の前後も含め、要約しますと、覚者は長い転生の歴史の中で、男性になったり女性になったりを繰り返し、両方の性を兼備している。彼らは肉体に転生する必要がないまでに至っているが、肉体に転生する場合は、現在の地球エネルギーの関係で男性になる。

ということです。




さらに二三、性に関する思想が現れていると思われる箇所を拾ってみます。


まず、上記の文で気に留まる箇所は、「エネルギーの関係上」です。そこでエネルギーについての説明がないかと、記述を拾ってみました。

で、「太陽から飛来するプラーナ」という箇所があり、そのプラーナの注釈という形で、「男性的エネルギー」とあります。つまり「プラーナは太陽から飛来し、それは男性的エネルギーである」と言っているわけです。

そしてクンダリニーの広い解釈として、「女性的エネルギー」としています。ここでは「地球の中心から来るクンダリニー」とあり、「大地」と結びつけて説明しています。

つまり、男性的エネルギーは太陽が、女性的エネルギーは大地(地球)が司る、という考えが見て取れます。ちなみに神智学はそもそもが太陽系における宇宙観で、ここでも高位のエネルギーが太陽から地球に注がれるというイメージのようです。要は太陽と地球を同列には見ていません。


ちなみに、プラーナ、クンダリニーをそれぞれwikiで調べますと、以下の通りです。

プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。
インド哲学では、同時に人間存在の構成要素の1つである風の元素をも意味している。そして生き物 (すなわち息物) の生命力そのものとされ、やがてその存在はアートマン*の根拠にまで高められた。

*アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。

クンダリニー(Kundalini、サンスクリット語: कुण्डलिनी、 kuṇḍalinī )とは、ヒンドゥーの伝統において、人体内に存在するとされる根源的な生命エネルギーを意味する言葉。宇宙に遍満する根源的エネルギーとされるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。
語源Kundalini (クンダリニー)は、サンスクリットで「螺旋を有するもの」を意味する kundalin (クンダリヌ)の女性形主格である。(以上ウィキペディアより)


性別に関する記述としては、クンダリニーの語源としてですね。プラーナが男性的という記述はなく、この解説ではむしろプラーナも女性的エネルギーのようにさえ受け取れます。

他のネット情報を見ても、プラーナを男性と結びつける情報は出てきませんでしたし、この著書なりの捉え方ではないかと考えられます。



ほかに性別への思想が典型的に見て取れる箇所として、「女性の相が活性化すると感情のコントロールが容易となり、男性的な相が活性化すると精神のコントロールが容易となる」という記述があります。換言しますと、「女性性は感情、男性性は精神に関与している」という考えですね。
「女性は感情、男性は理性」という言葉はしばしば耳にしますが、男性性を精神と結びつけるのは初めて見ました。

ここでふと思ったのが、そもそも「精神」って何だろう? ということです。
辞書を引くと、「心」と書いてあったり、「理性」と書いてあったりと、精神の定義はバラエティに富んでいるようです。ちなみに「心」といえば、感情も心から発しますよね。どうも対比がよくわかりません。

ですが本書では、前後も含めた文面からは「精神」を「感情」より上位に捉えていることがうかがえますし、男性を理性と、女性を感情と結びつける一般的な思考と大差ないようです。






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他の著書でも見られる明確な観念






本書には、著者ご自身の、他分野にまでわたる広範囲な知見も含まれているので、これらの記述が純粋に神智学のみに基づいて語っているのか、著者の見解が含まれているのかは分かりません。が、これほどの研究者の方が、このような基礎的な概念で神智学に反することを書くとは考えにくいです。



しかし他の著書も検討してみましょう。著者は、この分野に深く引き込まれるようになったきっかけとして、ベンジャミン・クレームという方の著書を挙げています。そこで私も同氏の書『マイトレーヤの使命(第一巻)』を入手してみました。
著書の大部分は質疑応答です。前提となる著述や講演があり、質問者や日時は質問ごとに違うようです。
上述の著者もそうですが、こちらの方も、バランスの取れた豊かな知性が著書から伝わってきます。
(余談ですが、この方の写真を拝見した際も、シュタイナーに似てる印象を受けてしまいました。あくまで私の主観なんですが・・・普段は誰でも同じ顔に見えるとかって、ないんですけどね・・。)



全体として、この方の基本的なレベルでの性意識は平等で、性差別もないように見受けられます。
(例えば、「女の僧侶がいるべだと思うか」という、質問者の側が性差別意識を含んでいそうな問いに、女が僧侶になるべきではない理由はないと答えています。)


ただ、霊性というレベルでは、男性性を優位と考える意識が感じ取れます。


例えば「三位一体」というものについての質問があります。

質問 三位一体は男性ですか。

答 三位一体は男性(霊)と女性(物質)の相を合体し、霊と物質との間の関係──キリストの相──を合わせます。(後略)(ベンジャミン・クレーム著『マイトレーヤの使命(第一巻)』より)



(※ちなみにこの種の考察で「霊」と言えば、スピリチュアル/物質との対比におけるスピリチュアルのことを指します。別の言い方では、神観における領域、またはその領域に属する魂のことです。いわゆる幽霊を指す場合の霊は、憑依霊や生霊、動物霊などといった呼び方をされます。

※「キリスト」は固有名詞ではなく、普通名詞として用いられています。神/霊/物質という相、エネルギーにおいて神の相というニュアンス)



短いやりとりですが、著者の基本的な概念が端的に表れています。

男性(霊)と女性(物質)の相に、キリストの相(神)が合わさる、というかたちで説明しています。

当然ながらスピリチュアルにおいて霊は物質よりも高位に認識されます。大変明確に男性性を優位とする考えだと思います。




別の質問も目に留まりました。質問者が、「もし覚者方は最後の転生において男の肉体を持つならば、聖母マリアは彼女の昇天の後、また戻って来たのですか」と問いかけます。つまり「覚者の最後の転生は男性だというが、聖母マリアは女性ではないか?」というわけです。対する回答として、聖母マリアは覚者ではなく、またその転生が最後でもないことが語られます。
このやり取りから、著者が「最後の転生は男性の肉体を持つ」とどこかで言っていることが伺えます。


実のところ、このやりとりを目にしたとき私は、「なかなかうまいことを言うな」と感心したのでした。


この理屈なら、今生で女性であっても、いずれは男性にも転生するわけだし、今男性だからといって、その転生で必ず覚者だとも言えません。
しかも前述のように神智学では、地球のアセンションが間近に迫っているという考えがないので、輪廻転生が連綿と続いていく中での、変化の相に過ぎないことになります。
男性優位思想には違いないのに、批判が起きにくい理屈ですよね。



いずれの著書でも、ポイントとなるのは、男性性と女性性に対する捉え方と、それが肉体というかたちをとる場合の反映のされかただと思います。




ところで本書では、これ以前に『世界大師(マイトレーヤ)と覚者方の降臨』という著書がすでにあり、言うべきことは書き尽くしているつもりだった、という意味合いの序文が付されています。
そこでそちらも読んでみることにしました。本書のやり取りの前提となる記述も見つかるかもしれません。






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こんな興味深い記述も






そうそう、その前に・・・。本書には他に面白い箇所があります。

ある質問者が──この方は他のスピリチュアル書やマタイ伝等、さまざまなソースを挙げているので、何に基づいたものかはっきりしませんが──「質問 地球は進化途上のものと降下の弧上のもので充満していますから、すべての形態が同時に完成することはなさそうです。しかも、地球は一定の間隔でその軸の傾斜が変わり、その結果生命形態は完全に終わります。(中略)魂は、地球の再均衡を待って、それぞれにふさわしいアストラル界またはエーテル界に入るのですか。あるいはあなたはそのような出来事を近い将来に予想しませんか。」と問うたのに対し、クレーム氏の回答として

答 この質問は「破局妄想」の部門に属します。まず最初に、失礼ですが、我々は「地球は一定の間隔でその軸の傾斜が変わり、その結果生命形態は完全に終わる」ということを知りません。質問者はどの本を読んだのか知りませんが、これは全くばかげたことです。(中略)広範囲の地球の変化が起こることは予想されますが、また、今から七~八百年後くらいのことでしょう。(後略)(同著より)



なかなか興味深いやりとりですよね。質疑と応答の間で、火花が散るのが見えるようです。

「地球は進化途上のものと降下の弧上のもので充満しているから、すべての形態が同時に完成することはなさそう」「地球はその軸の傾斜が変わる」「魂は地球の再均衡を待ってそれぞれにふさわしい界に入る」など──これって明らかに近々起きるアセンション・イベントについて言及していると思われますよね。

これに対し著者は、質問自体を「破局妄想」「全くばかげたこと」とバッサリ。地球に変化が起きるとしても七~八百年後くらいだろうと予測しています。



先に挙げた神尾氏もそうでしたが、こちらの著者も、われわれが非常に近い将来起きると考えているアセンションを認識していないことがはっきりわかる一幕です。


われわれ──つまり、著者がこの回答で「我々は知りません」と言っている、その「われわれ」と、アセンション・タイムラインを認識する「われわれ」は、別のタイムラインにいて、この先の道筋が乖離し、無関係になっていくのだろうと思われます。


そんな「われわれ」が、まだ今の時点では重なり合うタイムラインで、多少の関わりを持ち、彼らの想いを知ることは、物質次元地球で残された貴重な学びの一つかもしれません。






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さらに具体的に、性の役割をどう見ているか・・






話の筋をもどしましょう。新たに入手した同氏の著書は、やはり大半が講演への質疑応答です。


本書では上記著書では分からなかった一節が見つかります。

質問 女の肉体で現れた覚者はいますか。」 
直球の質問ですね。以下、回答を書き出してみます。

答 その時は、いまだ来ていません。すべての覚者は、最後の転生において、男性の肉体を持たれました。はっきりとしたエネルギー的理由があるからです。覚者とは完全に霊で満たされた人格であります。霊のレベルでは、男とか女とかいうような性はありません。ただエネルギーの極性があるだけです。一つのエネルギーに陽と陰の両極があります。
覚者はこの両方を完全な平衡に持っていかれた方です。ですから、ある意味で彼らは男でも女でもありません。男の肉体を持つのは、そのエネルギーの質のためです。この時期の地球上における霊と物質の関係のあり方ゆえに、エネルギーの陽の面をこの世界に力強く固定させ、物質にあらわされる陰の面とのバランスを保たねばならない。これから三百五十年から四百年くらい経てば、状況は変わるでしょう。ゆっくりしたプロセスです。
われわれの言う霊と物質のエネルギーの関係が、覚者が女の肉体を持てるほど十分に変われば、女の肉体をも持たれるでしょう。(B・クレーム著『世界大師(マイトレーヤ)と覚者方の降臨』より)



この回答が、先に挙げた著書で拾った記述の前提となるやり取りを、ほぼ全て言い表していると思います。「覚者の最後の転生は男性」という点も、ここで明言されています。


そのうえ、神尾氏の方の記述「現在の地球エネルギーの関係上、男性の肉体をとります。」の、「現在」が、どの程度のスパンを想定しているのかも氷解します。「これから三百五十年から四百年くらい」とは、随分ゆっくりした想定ですね。


また、「エネルギーの関係上」のエネルギーについても、あらためて確認できます。

回答の中で同氏は、エネルギーのタイプを陽と陰に分け、陽=男性=霊、陰=女性=物質と見なしていることを力説しています。

これは三位一体についての説明とも同じで、同氏の中でゆるがない思想だと分かります。






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フェミニズムと女性の役割をどう認識しているか






他にこんな質疑もあります。女性解放運動について語る場面ですが、


質問 (前半略)女は男よりも敏感です。いつもそうでした。男よりも直感が鋭いのです。ですから、論理的にも、キリストが女性の肉体で来られることも、極めて可能だと思いますが。

回答 (冒頭略)女の役割は文明を育てることです。これが女性の原理の背後にあるのです。女は、母は、物質の側面を代表し、地球を育て、人類を育て、そして自然界のすべての王国を育てるものです。男の側面は、創造的な刺激的エネルギーを持っています。この二つの融合の結果がキリストであり、人間であり、または、キリスト原理です。この原理を女の側面から育てるのです。これを正しく行うために、女性は自分たち自身の正当な位置に立ち返らねばならない。(中略)そして、この惑星の物質の面と、霊の面の均衡を作らねばならない──私はエネルギーの見地から話をしています。そして、それがなされたとき、女の肉体を持つ覚者が現れるでしょう。現在は、キリスト・マイトレーヤを含めて、すべての覚者方が男の肉体を持っています。(同著より)



この質疑応答は、質問のほうも「論理的」とは言い難い気がしますが、著者の回答も若干抽象的な面があります。
著者は女性の原理と男性の原理があるといい、「この二つの融合の結果がキリストであり、人間であり、または、キリスト原理です。」と述べています。だから「女性は自分たち自身の正当な位置に立ち返らねばならない。」という。

ではその、「正当な位置」とは何か、つまり女性原理とは何かを、「女は、母は、物質の側面を代表し、地球を育て、人類を育て、そして自然界のすべての王国を育てるものです。」と説明しています。
つまり、女性は女性の役割に立ち返るべきだ、というのですが、その役割とは何かが、この回答でははっきりません。


でも別の箇所に、具体的な記述があります。質疑応答の中の一節ですが、抜粋してみます。

赤ん坊は家族の中で見守られ、そして母親は育て育むものです。母が赤ん坊に滋養を与え、世話をし、害のないように見守り、教える──母親の知る文明のレベルが何であれ、それを子供に教え分かつのです。」「女の役割は育成することですから、家族は保存されねばなりません。(いずれも同著の質疑応答の一節)


つまり「文明を育てる」の真意は、「子育てをして、その子供に文明を教える」ということだと、この答えでようやく分かります。



スピリチュアル的な概念もまじえて説明しているので、分かりにくいと思いますが、簡単に言えばこういうことでしょう。
「女性原理と男性原理があり、それが融合してキリストとなる。だから、女性は女性の正当な役割に立ち返らねばならない。その役割とは育児である。」



ちなみにこの質疑はどれも1977年時点です。日本版の本書は1998年初版発行で、2014年に改訂版が発行されています。念のため両方入手してみましたが同じ文でした。
1977年はイギリスでも女性は家事・育児の時代だったかもしれませんが、同氏は二十一世紀になっても訂正する気はなかったようですね。


ただ、著者には人が幾多の転生の過程で男性にも女性にもなるという認識があり、その転生での性別による役割分担、言わば「当番制」みたいなものと考えているのかもしれません。事実こんなことも言っています。


現在はしかし、転生の経験を通して何度も何度も、自分たち自身が男であったことを忘れてしまい、男性に対して、いくらか神経症的憎悪を持つ女たちに指導されているために、いくらか軌道を外れています。理解できることではありますが、彼女たちは、自分たちの困難や自由のなさを、完全に男のせいにしています。しかし、世界において、女の自由が欠けているのは事実です。全く現実です。そして、それは完全なる平等の権利へ道を開かねばなりません。(同著より)


それぞれの性別における役割について、人が男性になったり女性になったりと転生を繰り返すことを強く意識しているのがうかがえる発言です。と同時に、現代のフェミニズムに対して肯定的である一方で、先鋭的なフェミニズムには苦々しさを覚えていることも伝わってきます。



一方で、著書の冒頭部分ではこんなことも書いています。
今日世界を取り巻く諸問題の解答を自分たちの裡に持ち、能力と見識を備えた男女の出現を、世界はもうすぐ目撃するであろう。彼らは、すべての人間の幸せを心に描いている。時が至れば、世界の社会構造をより霊的な線に沿って再組織する仕事にいつでも取り組める用意がある。それは、もうすぐ起こるだろう(同著より)

ここでは男女と呼んでいて、仕事の内容も限定していません。確かに、育児が他の仕事ができなくなる理由にはならないし、矛盾する話ではないのでしょう。




冒頭で触れましたように、今はポリコレやフェミニズムなど、性別や人種などの属性への差別が極めて厳しい目で見られる時代です。推測すれば、質問者がよほど突っ込んだ質問をしない限り、「女の役割は文明を育てること」「地球を育て、人類を育て、そして自然界のすべての王国を育てる」といった、かなり抽象的な答えを返しているのは、やはりこうした現代の風潮が念頭にあるからではないかと思います。




以上見てきた記述からは、著者がかなりフェミニズムを意識し、柔軟に理解を示していること、その上で、女性/男性の役割については、現代的な風潮の中でもゆるがない観念があることが伝わってきます。




先鋭的なポリコレやフェミであっても、その厳しい目の枠外にあるのが、スピリチュアルではないかと思います。

「エネルギー」「相」「転生」といった、概念に基づいて男女の役割を語るとき、物質社会的な見地とはまた違う認識をはらんでまいります。


ですが、本稿で着目したいのは、物質次元社会での役割云々ではなく、スピリチュアルにおける性概念です。





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ポイントは女性性を物質次元、男性性を霊的な次元と結びつけていること






ここまで見てきた著書の思想をまとめてみましょう。

・女性性=物質的エネルギー/男性性=霊的エネルギー 

・この二つはどちらも欠かせない要素で、これらが融合してキリストへと昇華する

・人は転生を繰り返し男性にも女性にもなるが、覚者となる最後の転生での肉体は男性。女性の肉体で転生することがあるとしても、三百五十年~四百年後




スピリチュアリストが霊を物質より上位に捉えないわけはないですし、覚者となるにしても男性が女性より三~四世紀も先行していると考えているわけですね。先に紹介した著者の考察でも、同様の思想なのは明らかでしょう。

同時に彼らに神智学(秘教)の背景がある以上、エネルギーや原理に関わる重要な点について、無関係にこのような思考を持つとは思えません。「女性の役割は育児」というのは秘教にある考えなのか分かりませんが、いにしえからの思想なので分からなくもありません。


それよりも、ポイントは女性性を物質次元、男性性を霊的な次元と結びつけていることだと思います。




ここまで見てきた通り、神智学では、「エネルギー」「相」といった概念に基づいて、男性優位を語っておりますね。

この男性優位思想に基づいて、肉体での転生でも、覚者となるのは男性が圧倒有利であり、事実これまで覚者は全て男性である。女性がそれに追いつくためにはかなりなギャップがある、という論理展開になっています。


私が思うには、「地球エネルギーの関係上、男性の肉体をとる」というより、「地球では性差別が激しい関係上」と言い直した方が適切な気がしますが・・・。






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霊性開発における性概念で着目すべきもの






さて、今回は神智学での性概念はどのようなものか見てきました。


スピリチュアルにおいても、性別の問題となると、物質世界の性と、スピリチュアルな見地での性が、互いに滲み合っており、それらを整理して考察することが、かなり難しいことを、あらためて感じました。




スピリチュアルな見地での女性性/男性性──その原理の表れである肉体に、性による差があることは事実だとは、私も思っています。


ではありますが、神智学で語られる性差の概念は、首肯するには少々抵抗があります。


何と言いますか、この、どうしても男性を女性より優位に捉えようとする思考──魂には本質的に性別がないことも、転生も認めながら、それでも男性であることを優位に捉えようとする思考──には、若干、涙ぐましいものさえ感じます。やはり地球人特有なのでしょうか。





私の認識では、女性の肉体、男性の肉体であることが、何かスピリチュアル的な道筋に、違いが生じるものかどうかを考える際、やはり注目すべきは、脳の働き方ではないかと思います。



次回は、神智学とは違うアプローチで、私なりの知見に基づいて、性差について考察してみます。それが、霊性開発の道筋において、あらたな認識を育てることにつながればと思います。


もちろん前述しましたように、目するのはアセンションであり、この考察もアセンション・メソッドのためのものです。順を追って思考を積み重ねていくことが、このアプローチのためには大事です。


次回からが、このレクチャーのキモとなってまいります。その意味でも、ここまでの考察を、ゆっくりお読みになっておいてくださいね。


(※なお、LGBTについてはどうなのか、とお思いの方もいるかもですが、ご本人のアイデンティティとしての性認識と、ここで取り上げている性はまた別の話になります。その点についても次回説明する予定です。)











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